中部地域の注目パーソンにインタビュー!
世界に誇るタオルブランドへの挑戦(1/4)
January 25. 2023(Wed.)
岐阜県安八町(あんぱちちょう)にある浅野撚糸株式会社の二代目社長・浅野雅己(あさのまさみ)さんは、空前の大ヒットを続けるタオル『エアーかおる』の生みの親として知られる。斜陽産業と呼ばれて久しい撚糸業界にありながら、経営危機を脱却して見事に復活を遂げ、その経営手腕にも注目が集まる。第一回目の今回は、浅野撚糸の概要と浅野社長の生い立ちをご紹介する。
縄の加工業から始まり、
1967年に撚糸業を開始
のどかな田園風景が広がる岐阜県安八町の郊外に、世界から注目を集める町工場がある。シリーズ累計販売枚数1400万枚を超えるタオル『エアーかおる』を生み出し、経営危機から見事な復活を果たした浅野撚糸株式会社である。
本社を構える安八町は、木曽三川の豊富な水に恵まれ、昔から紡績業が盛んな地域である。かつて紡績会社が作った糸は、縄で縛って運ばれていた。戦後の繊維業の発展を受け、糸が大量に必要となったことから、浅野さんの父・博さんは、1953年に縄の加工業を開始。その後、紡績会社が撚糸の工程を社外に委託するようになったため、それまでの縄の加工から撚糸業へと舵を切ることを決断。1967年に現在の浅野撚糸が誕生した。
魔法のタオル
『エアーかおる』を開発
創業以来、大手紡績会社の仕事を請け負ってきた浅野撚糸だったが、2000年以降、経営は苦境に立たされることに。そこで起死回生の一手として取り組んだのが、特殊撚糸『スーパーゼロ』の開発、そして2007年に発売を始めた自社タオルブランドの『エアーかおる』だった。
『エアーかおる』は、これまでのタオルでは考えられないほどの抜群の吸水力を誇る。この特徴を生み出しているのが、浅野撚糸が特許技術を持つ糸『スーパーゼロ』だ。繊維の間に多くの空洞があるため、ボリューム感が出るうえ、非常に高い吸水性と速乾性を発揮するという特殊な糸。同社の二代目社長・浅野雅己さんは、この画期的な素材を5年の歳月を費やして生み出した。
子どもの頃からガキ大将。
とにかくわんぱくだった
浅野社長は、幼稚園児の頃からわんぱくでガキ大将タイプだったそう。ただ、いじめは絶対にせず、弱い者を率先して助ける。周囲からの人望も厚く、小学校では学級委員を任されるなどリーダー的存在だった。
当時抱いていた夢は2つあった。
1つは「社長になること」。父・博さんが農家から縄の仕事を始め、撚糸業を拡大させる中で、生活も徐々に豊かになった。
「我が家に高級車が納車される。ゴルフも始める。社長ってかっこいいなと憧れを抱いていました」と浅野さん。当時人気だったテレビアニメ『巨人の星』でも、中小企業の社長は羨望を集めていた。
高校卒業後は、体育教師を志して福島大学へ
もう1つの夢が、体育教師になることだった。
「勉強は大嫌いでしたが、体育は大好きでした(笑)。いつしか体育の先生になりたいと思うようになっていましたね」
その当時に流行したテレビ番組に影響を受け、中学から大学までバレーボールに打ち込んだ。そして、体育教師の夢を追いかけ、高校卒業後は多くの体育教師を輩出する福島大学に進学した。
中学校の体育教師になり、バレーボール部の顧問として全国制覇を成し遂げたい。そんな目標を抱き、福島の地で4年間の青春時代を過ごすことになった浅野さん。ただ、大学時代はとにかく苦労した。慣れない一人暮らしに加え、部活の練習に集中するあまりアルバイトをする時間が確保できず、4畳半一間での生活が続いた。それでもトラック運転手やバーテンダーの仕事などでなんとか生活費を稼いだ。
「社長の息子として、不自由なく暮らしてきた甘えを払拭できた4年間でした」と学生時代について振り返ってくれた。
プロフィール
- 浅野撚糸株式会社 代表取締役社長
- 浅野 雅己
- 1960年生まれ。浅野撚糸株式会社の二代目社長。撚糸の開発を続け、柔らかく軽量、吸水性抜群の魔法の撚糸『スーパーゼロ』の開発に成功。この画期的な糸の特性を生かし、三重県津市の老舗タオルメーカー・おぼろタオルと共同で『エアーかおる』を生み出し、シリーズ累計販売枚数1400万枚を超える人気商品に育て上げた。
- 浅野撚糸株式会社
- 1967年、縄の加工業を営んでいた父・博さんが撚糸工場として創業。最先端の機械と高度な技術で大きく成長を遂げるも、安価な海外製品が国内シェアを占拠し、一時は倒産寸前の危機に。その後、タオル『エアーかおる』の大ヒットによりV字回復を成し遂げた。